2011年5月28日土曜日

のぶニャが用語辞典【指物】

歴史マニアじゃない俺が、のぶニャがを通じて学んだ言葉の覚え書きコーナー第3回。

指物(さしもの)と読みまする。旗や指物は、合戦において「敵味方を区別するための標識」として使われたようです。いわゆる軍旗というやつですな。また、「戦場で目立つこと」は論功行賞の対象になるために重要だったらしく、そういった理由から、旗指物、甲冑、陣羽織などに奇抜なデザインを取り入れたんだそうな。


なかでも「落合左平次道次背旗」の図柄と逸話は、歴史ファンの間では有名なものらしく、「三河猫まみれ」で追加されたカード、鳥居すニャえもんのイラストは、旗指物そのまんまなんでございますね。

▼落合左平次道次背旗/東京大学史料編纂所所蔵(セクスィなハミ毛あり♪
▼ウィキペディア:鳥居強右衛門(とりいすねえもん)

俺みたいに歴史に疎い人のために、ざっくりその逸話を紹介しておきましょう。(歴史ファン読み飛ばし推奨)

天正三年、武田勝頼軍に包囲された三河国長篠城中では食料が尽きかけていた。城主奥平信昌は家康に援軍を頼みたいが、いかんせん武田の包囲は厳しく、使者になる勇気のある者はいなかった。信昌やむを得ず自ら使者になろうというところで、進み出たのが軽輩の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)27歳。
夜半に大野川の水底を潜り、みごと包囲網を抜け岡崎城にたどりつき、家康に城の現状を報告することに成功。織田信長の援軍も到着し、織田徳川両軍直ちに出陣するという話を聞いて喜んだ強右衛門、家康が止めるのも聞かず「城兵を勇気づけたい」と援軍より早く長篠へ戻ってしまう。
城に希望を届けるべく急いで戻ってはみたものの、厳しい包囲を破って城内に戻ること叶わず、城を目の前にしながら武田勢に捕えられてしまう。援軍が来ることを知った勝頼は、強右衛門に「『援軍は来ないから降伏せよ』と城に伝えれば、厚く賞しよう」ともちかけると「心得ました」と意外にもあっさり承諾する。
城門近くに連れて行かれた強右衛門は「城の衆!徳川軍と織田軍は野田まで出陣して来ている。今少しの辛抱じゃ」と叫び、勝頼をみごとに出し抜くも、勝頼の怒りを買い、五月十六日、城の者たちが見守る中、堀端で磔にされ、槍でさんざんに突き殺されたんだそうな。
なんという死に様。かっこいいにも程がある。惚れてまうやろ…。

このとき武田勢にいて強右衛門の処刑を取り仕切っていたのが落合左平次道久。惚れてもうたわけですね、強右衛門の男気に。面倒を見ているうちに二人は意気投合し、強右衛門の最後の様子を写し取って指物とする了解を得た左平次は、合戦の度にその指物を使ったそうな。
後に徳川家に仕えた彼は、長坂血槍九郎、渡辺半蔵とともに「天下の三槍」と呼ばれ、朱の槍を許され、剛の者と呼ばれましたとさ。おしまい。

(参考資料:戦国武将列伝 別冊歴史読本39/新人物往来社

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